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神話と不思議な旅② 飛鳥時代の中央都市 ~明日香村巡り~

神話

行先を決める

雀君達と戯れている中で、元気を取り戻した私は時間もできたことなので、関西をしばらく旅行することにした。

さて、どこにいこうか・・・。
と考えている時、かつて廃人のごとくOn Lineゲームにはまった時期があって、とある場所が思い浮かんだ。(うつ病になるとゲームにはまるというが、確かにメンタル痛めた廃人が結構いた)

そこは、、奈良県の中部にある「三輪山」

そこには、蛇神の姿をした大物主というボスが住み、レアドロップアイテムを取るために何度も倒していたボスだった。

当時は、大物主のことを良く知らずに何気に倒していたものだったが・・・。

これは、運命か、はたまた夢なのか・・。

四国育ちの私には全く縁がないと思われた大物主。

長い長い歴史の中で深い結びつきがあろうとは・・。

奈良県の三輪山付近の桜井市~橿原一帯は、かつて大和朝廷があった場所。
藤原京跡、明日香村といった観光名所が密集した地域である。
そこで、ついでに明日香村も行ってみることにした。

1日目 明日香村巡り

明日香村は奈良県の南東部に位置し、尼崎から電車を乗り換えること約2時間。
朝8時に飛鳥駅に到着。
駅前にレンタサイクルがあるので、ここで自転車を借り1日かけて明日香村を回ることにした。
ルートは下の地図のとおりで、南の稲渕に向かったあと北上するルートを辿った。

明日香村巡りをする場合、下のルートだと8時~17時までかかるので、時間に余裕がない方は北半分側のルートがお勧めです。

うつ病のときは旅行もなかなかできないけど、旅行ができるようになれば世界が変わってみえてくるようになるよ。

明日香マップ | あすかであそぼ
「あすかであそぼ」は、一般財団法人明日香村地域振興公社が運営する観光情報サイトです。奈良県明日香村の観光情報やイベントのご案内、飛鳥グッズのお店などの情報が盛りだくさん。旅行やハイキングの際はぜひご利用ください。

飛鳥時代とは

明日香村は6世紀末から8世紀初めの飛鳥時代の中心となった日本の都。
当時は日本に仏教が伝来し、仏教文化の黎明期であった。
飛鳥時代の着前は、物部氏、大伴氏、蘇我氏といった有力豪族たちが権力争いをしていた時代。
最終的に蘇我氏が勝ち残り、天皇家と血縁関係を結ぶなど飛鳥時代前期は蘇我氏の独裁政治時代でもあった。
しかし、乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足(藤原鎌足)により蘇我入鹿が打ち取られ蘇我氏は滅亡する。
以後、大化の改新により中央集権化が図られ、天皇を中心とした政治が行われるようになる。

1.田園風景

この周辺一帯はかつて繁栄していたとは思えないほど、鄙びた場所で、のどかな田園風景が広がっている。

2.文武天皇陵桧隈安古岡上陵(ひのくまのあこのおかのえのみささぎ)

文武天皇(42代)は、祖母持統天皇に寵愛されて育った飛鳥時代の天皇。
697年に14歳の若さで藤原京にて即位し、25歳で崩御する707年までの10年間天皇に在位した。
持統天皇は後の院政の始まりとなる太上天皇として、藤原不比等とともに文武天皇を支援した。
文武天皇治世時、大宝律令が施行され、田租・雑徭などを軽減するなど善政を行ったとされる。
藤原不比等の娘宮子との間に聖武天皇をもうけた。
桧隈安古岡上陵が文武天皇陵と指定されていますが、中尾山古墳を真の文武天皇陵とする意見が有力でとされている。

3.高松塚古墳

高松塚古墳は、7世紀末から8世紀の藤原京期(694年~710年)につくられた古墳で、被葬者は分かっていない。
昭和47年の発掘調査で日本で初めて石室内に描かれた壁画が発見されたことで注目され、国宝に指定されている。
直径23m(下段)、および18m(上段)、高さ5mの二段式の円墳である。
内部は切石を箱型に組んだ石室があり、北壁には玄武、東壁には男女群像、太陽と青龍像、西壁には男女群像、月と白虎像、天井に星宿が色鮮やかに描かれている。
このような壁画古墳は、日本では高松塚古墳と明日香村南方にあるキトラ古墳しかない。

4.明日香村全貌

高松塚古墳から稲淵に向かうまでは急な山道で、自転車を降り歩きながら登った。
道中はこれといって何もなく、頂上付近では明日香村全体を見渡すことができる。
飛鳥時代の中心となった日本の首都としては、考えられないほどとても狭い領域。

5.明日香村の棚田風景

急な山道を登り下りに入ると、眼下には棚田が扇状に広がって見える。
ここの棚田は平安~室町期に開墾された稲渕の棚田という場所で、棚田百景のひとつに選ばれており、昔の日本の風景を伝える明日香村の名所の一つだ。
特に、秋は彼岸花が一面に咲き、多くの観光客が訪れるのだが、この時期は閑散としていた。

田んぼがだんだん減って私たちも住みにくくなったもんだ。

6.案山子ロード

飛鳥村名物の一つとして案山子コンテストが毎年行われる。
毎年、テーマが変わり、案山子ロードと呼ばれる田んぼ道に沿ってユニークで多彩な案山子を見ることができる。

7.稲渕の綱掛け神事 男綱

稲渕の棚田から南方の栢森までは奥飛鳥と呼ばれる地域。
稲渕の入口の 勧請橋 (かんじょばし)の近くに、奇妙なものがぶら下がっているのを見る事ができる。
これは、稲藁で作った男性のシンボルで、「男綱」と呼ばれている。
男綱は長さ約80m、重さ300kgあり、毎年成人の日に住民約20人でわらを編んで作る。
高さ1.5m、直径30cmほどのシンボルが飛鳥川の上につるされる。
この行事は綱掛け神事と呼ばれ、稲渕と奥にある栢森に伝わるものである。
子孫繁栄と五穀豊穣を祈るとともに、悪疫などこの道と川を通って侵入するものを押しとめ、住民を守護するための神事と言われている。

8.飛鳥川 飛び石(石橋)

稲渕から 栢森までは飛鳥川に沿っての道のりとなる。
栢森 までの中間地点に、万葉集に数多く詠まれたという、飛び石(石橋)がある。
飛び石とは、飛鳥川にいくつかの石を渡して橋として使ったもの。
飛鳥川は幅の狭い清流で、あまり深くはないため、石を使って川を渡ることができる。
夏は蛍が鑑賞できる。

明日香川 明日も渡らむ 石橋(いしばし)の
遠き心は 思ほえぬかも
作者不詳 万葉集 巻第11-2701

明日香川、あの川を明日にでも渡って逢いに行こう。その飛石のように、離れ離れの遠く隔てた気持などちらっとも抱いたことはないのです。

飛び石(石橋)

9. 飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社 (あすかかわかみにますうすたきひめのみことじんじゃ)

稲渕地区と栢森地区の間くらいに、『飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社』という古社が鎮座する。
本殿はなく、拝殿後方の南淵山をご神体とする原始神道の神社 。
200段ほどの長い石段と、長い名前が特徴で、日本一名前の長い神社だそうだ。
日本書紀においては、642年の皇極天皇のときに最初の雨乞いが行われた神社として記録が残っている。
歴史的価値の割に、この当りは観光客どころか人の姿も見当たらない、ひっそりとした場所にある。
主祭神は、古代宇佐国(福岡県北部)の多伎都比売命(たぎつひめのみこと)で、大国主神のお妃。
俗に宇佐宮と呼ばれているが、神社の沿革は詳らかでない。

疲れていたので、石段の長さをみて諦めてしまった。

10. 栢森(かやのもり)の綱掛け神事 女綱

稲渕にあった男綱とは対照的に、栢森に差しかかる所にあるのは女綱。
形状は丸い玉のようで女性のシンボルを表している。
面白いことに稲渕全体では、 神職が御祓いをする神式であるのに対し、 栢森は僧侶の法要の後に行う仏式で行う。

11.稲渕の街並み 竜福寺と竹野王碑

飛鳥川に沿って細長く民家が立ち並ぶ稲渕の集落。
集落の中ほどにある竜福寺には、わが国最古の石塔という竹野王塔があり、集落はずれの高台に南淵請安(みなみぶちのしょうあん)の墓がある。
南淵請安とは、中大兄皇子と中臣鎌足(のちに藤原鎌足)が蘇我氏討伐のとき教えを受けた遣隋使。

右方の石垣の上にあるのが竜福寺

竹野王碑
751年に造られた最古の石塔

12.棚田の風景

稲渕を抜け、北へ進む。
晴天と扇状地に広がる棚田。
このあたりをウォーキングする人をみかける。

13.マラ石、フグリ山

石舞台古墳へ向かう途中みつけた奇妙な石。
良く見ると、男のシンボルがリアルに掘りこまれている。
これは、謎の石造物の一つマラ石と呼ばれるもので、本来はまっすぐに立っていたともいわれている。
地元では、飛鳥川をはさんだ対岸の山を「フグリ山」と呼び、マラ石とペアと考えられている。

フグリ山は形状からすると女性のシンボルかな・・。
この付近はこういった下ネタ系があって、最初は不思議に思ったよ。。

マラ石

フグリ山

14.都塚古墳

マラ石を通り過ぎると、木が花笠のよう植えられた小さな丘が見えてくるが、これが都塚古墳である。
都塚古墳は、6世紀末に造られたもので、蘇我稲目の墓と考えられている。
1辺約28m、高さ約4.7mの方墳。
「金鳥塚」とも呼ばれており、元旦になると金鶏が鳴くという伝説がある。
日本では他に例のない階段ピラミッド形状の古墳として知られ、 高句麗の積石塚(つみいしづか)などの影響を受けた可能性もあるとしている。

都塚古墳全貌

古墳前

15.石舞台古墳

都塚古墳から坂道を登った頂上付近に石舞台古墳がある。
石舞台古墳は7世紀初期に造られた古墳時代の古墳。
見えている石の部分は巨大な横穴式石室の部分で、我が国では最大級の石室となる。
当初、周囲は土で盛り上げられ墳丘で覆われていたそうだが、それが剥がされむき出し状態になった姿なのだそうだ。
墳丘は1辺50mの方墳で、周囲には幅8.4mの濠がめぐる。
被葬者ははっきりと分かっていないが、近くに蘇我馬子の庭園があったことから、馬子の墓と考えられている。
石室がむき出しになっているのも、馬子の横暴な態度に反発した後世の人が盛土を取り除いたためともいわれている。

石室部分

石室内

周囲には幅8.4mの濠がめぐる。

16.岡寺前鳥居

石舞台から下り阪を降りると明日香村の集落にたどりつく。
岡寺は1300年前、天智天皇の勅願によって義淵僧正が建立した寺。
義淵は日本で最初の「僧正」の位につき 、飛鳥時代の仏教界を牽引した人物で、奈良時代の良弁、行基といった高僧は 義淵の指導を受けたと いわれる。
寺名は 龍蓋寺(りゅうがいじ) であるが、古来から「飛鳥の岡にある寺」と呼ばれてきたことから岡寺と呼ばれるようになったという。

岡寺への入口になぜか今時寺であるのに珍しく鳥居がある。

山の上にあるのが岡寺。遠いので今回は諦めた。

17.酒船石遺跡

岡寺鳥居を通り抜けると集落が終わり再び山道へ。
生い茂る山道を抜けると、花崗岩でできた奇妙な石造物がある。
飛鳥村には亀石、猿石、マラ石など奇妙な石造物が数多くあり、昔のミステリー本によく載っていた。
これが酒船石と言われるもので、上部はいくつかのくぼみとそれらを繋ぐ溝が彫られている。
酒、薬をつくる道具、占いに使われたといった説などがあるが利用目的は分かっていない。

18.山道

山道を歩く歩く

19.大原の里 大原神社 ~藤原鎌足の誕生地~

山道を降りると「大原の里」という場所につく。
大原神社は、大化の改新の功労者であり、藤原氏の祖となる藤原鎌足の誕生地。
産湯を使った、とあるが、祠があり井戸は残っていない。

「鎌足は、中大兄皇子(後の天武天皇)を助けて、「大化の改新」を推進する偉業をなし遂げた。669年、臨終の床で、天智天皇から、最高位の「大織冠」の冠位を与えられ、その後、一千年以上も続く藤原氏の祖となった。」

「ここ大原神社の奥の竹田川のほとりには、「藤原鎌足産湯の井戸」、左手の森には鎌足の母「大伴夫人」の墓がある。」

20.大原の里 大伴夫人の墓

大原神社の前の細い道の雑木林の向こうには、鎌足の母、大伴夫人 (智仙娘(ちせんのいらつめ))の墓がある。

大原の里は、万葉集にもよく詠まれている。

大原の この市柴の いつしかと
わが思ふ妹に 今夜逢へるかも
   =巻4-513 志貴皇子=
大原の茂った雑木林の中でいつ逢えるかと思っていたが今夜やっと逢えたよ。

21.飛鳥寺修徳坊

ここは、ただの研修会館・・。

22.飛鳥巫神社(あすかにいますじんじゃ)

創建の由緒は不詳であるが、日本書紀にも記されている神社。
天照大神を初めて宮中の外で祀ったとされる地という伝承もある。
境内には小さな社が並び、男性と女性のシンボルの陰陽石が置かれており、子授けの神として信仰を集めている。
特に、毎年2月に行われる夫婦和合を模した儀式が行われる「御田(おんだ)祭」は奇祭として有名で、この時期は観光客で賑わう。

男女のシンボル(凸凹)と陰陽と関係があることを意味しているのか?

入口

力石
男性は左手で、女性は右手で持ち上げる
と幸福がつかめる

本殿

陰陽石

23.飛鳥資料館前

飛鳥資料館前で食事をとる。
ここで14時くらいだったか。
遠くに見える山は畝傍山。

24.雷丘(いかずちのおか)

田んぼの広がる交差点にこんもりとした小高い丘がある。
この丘は 雄略天皇の家臣が、ここに落ちてきた雷神を捕まえたという伝承が日本書紀に記されており、その由来から「雷丘」と名付けられた。
また、埴輪の欠片などが見つかっており、雄略天皇時の豪族の古墳墓である可能性や、宮殿があった可能性が高いと言われている。
また、持統天皇がここを遊行したとき、柿本人麻呂が読んだ場所でもある。

大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも (万葉集)

( 大君は神でいらっしゃるので、天雲の中にいる雷の上に
仮の宮をお造りになっていらっしゃることだ )

雷丘

登ってみても特に何もない

25. 甘樫丘 (あまかしのおか)

明日香村のほぼ中央にある標高148mの甘樫丘は、蘇我蝦夷、入鹿親子が権勢を示すために邸宅を築いたと伝えられる丘である。
ここからは明日香村集落が一望でき、大和三山といわれる畝傍山、耳成山、天香久山も眺めることができる。

畝傍山

香久山

耳成山

明日香村の集落

26.飛鳥水落遺跡

天智天皇が皇太子時代に日本で初の水時計(漏刻)を作ったと伝わる場所で、その遺構が残っている。
一階には水時計、二階には都中に時を告げる鐘や時刻の補正をするための天文観測の装置が置かれていたと考えられている。
日本書紀に天智10年4月25日に造られたと記録があり、この日はグレゴリオ暦で6月10日に当たることから、毎年6月10日は「時の記念日」になっている。

27.飛鳥寺

飛鳥寺に到着したのは16時あたり。だいぶ日が落ちてきた。

飛鳥寺は596年、推古天皇の時、蘇我馬子によって創建された氏寺で、日本で最初の本格的な仏教寺院である。
三金堂が塔を囲む大寺で、法興寺 元興寺とも呼ばれる。
鎌倉時代に伽藍の大半を焼失し、現在の本堂は江戸時代に再建されたもの。
本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は、飛鳥大仏の名で親しまれ、日本最古の仏像として有名である。
寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が残っている。

飛鳥寺前

本堂

飛鳥大仏

鐘楼

蘇我入鹿の首塚

28. 飛鳥板蓋宮跡(あすかのいたぶきのみや)

飛鳥寺から南へいったところに飛鳥板蓋宮跡がある。
板蓋宮は、舒明天皇が崩御した折り、妻の皇極天皇が蘇我蝦夷に命じて造らせた宮殿。
643年に移り住んだが、2年後の645年に、蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足らによって暗殺された大化の改新の始まりの舞台となった場所でもある。
これにより、皇極天皇は退位し、孝徳天皇に譲位した。
これが日本初の譲位とされる。
孝徳天皇は難波宮に宮を移し、654年に崩御すると、再び皇極天皇が板蓋宮で即位し斉明天皇となる。
しかし、即位した年に板蓋宮が火災にあったため、近くの川原宮へ遷った。

29.橘寺

橘寺は創建年代が不明であるが、聖徳太子誕生の地と伝えられる太子建立の7カ寺の一つ。
文献に登場するのは680年で、8世紀には66もの堂宇が立ち並ぶ大寺院で四天王寺式伽藍配置をとっていた。
現在は江戸期に再建された本堂(太子殿)など、わずかな諸堂を残すのみとなっている。
善悪2つの顔が刻まれた二面石や三光石、阿字池など太子伝説を伝えるものも存在する。

全景

         二面石
ここにも不思議な石造物がある。
右が善面、左が悪面といい、人の心の善悪二相を現しているとされる。

境内

境内

東門

        三光石
太子が勝鬘経(しょうまんきょう)を3日間にわたり講讃した時、太子の冠から日月星の光が輝いたと伝える石。

         阿字池
「阿」は梵字の第一音で、アルファベットのAに相当する文字。
太子が「阿」を形取りつくったと伝わる池。
このとき、水がなかった・・。

本堂
1864年建てられたもの

30.川原寺跡

橘寺の正面に川原寺がある。
斉明天皇が板蓋宮で即位した655年の冬、火災にあったため、ここに宮を置いていた場所でもある。
しかし、翌年には岡本宮を建てて遷っているので仮りの宮殿だったと考えられている。
斉明天皇崩御後、川原寺となり、平安時代に嵯峨天皇が空海に与え真言宗の寺として現在も残っている。

川原寺

周辺地図

31.亀石

亀石は、民家に挟まれているため見逃しやすい場所にある。
この石はいつ何のために造られたのか明らかでないが、川原寺の四至(所領の四方の境界)を示す標石ではないかという説がある。

また、次のような伝説が残る。
大和が湖だった頃に、川原と対岸の当麻との間で争いが起こり、長い争いの末当麻に湖をとられてしまう。
そのために、多くの亀が干上がって死んでしまったため、亀たちの霊を慰めるためこの亀石をつくり供養したそうである。
亀石が当麻の方向(西)を向いた時、大和は再び湖になるという。

方向は南西を向いている。
亀ではなく蛙ではないかとも考えられている

レンタサイクルを返却するまで時間があまりない。

32.天武・持統天皇陵(野口王墓)

周囲は田んぼに囲まれた小高い丘の上に天武天皇とその妃、持統天皇の合葬墓がある。
持統天皇のとき都としていた藤原京の中心軸の南に位置した場所にあるという。
大化の改新以降、両天皇は飛鳥浄御原令、八色姓(やくさのかばね)の制定など中央集権化に尽力した両天皇。
国名を「倭」から「日本」に呼ぶようになったのもこの時代からとも言われている。
また、両天皇は、道教、陰陽道に傾倒していたことも有名で、古墳も八角形となっている。
古墳内部は二室に分かれていて、そこが墓室となっていたが、1,200年頃に盗掘によって荒らされてしまった記録が残っている。

33.鬼の雪隠、鬼の俎

鬼の雪隠(トイレ)と俎(まないた)は、花崗岩でできた石造物で、それぞれ遊歩道を挟んで数十m離れたところにある。
元々は花崗岩を繰り抜いた横口式石槨の蓋石(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。
言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。

鬼の雪隠

鬼の俎

鬼の爼・雪隠は、封土を失った古墳の石室であり、もとは花崗岩の巨石を精巧に加工した底石・蓋石・扉石の3個を組み合わせたものであった。
いまは、底石(爼)と蓋石(雪隠)だけが分離して残っている。
大化2年(646年)の薄葬令の規制に合わせて作られている。
霧ヶ峰と呼ばれるこの一帯には鬼が住み、通行人に霧を降らせ、迷ったところをとらえて爼の上で料理し、雪隠で用を足したという伝説がある。

34.吉備姫王の墓・欽明天皇陵

欽明天皇陵

欽明天皇は29代(539年~571年)で、百済から仏教が伝わった時代の天皇。
在位期間は昭和天皇、明治天皇に次いで長い。
欽明天皇在位時は、大連の大伴金村が失脚後、廃仏派の物部尾輿と崇仏派の蘇我稲目の対立が起こり確執が深まった時期だった。
蘇我稲目の娘、堅塩媛(きたしひめ)が欽明天皇の妃となってから蘇我氏が勢力を強めることになる。
堅塩媛は蘇我馬子の姉で、推古天皇、用明天皇などを生んだ。

吉備姫王の墓と猿石

欽明天皇陵のすぐ近くに、吉備姫王の墓がある。
吉備姫王とは、欽明天皇の孫で、皇極(斉明)天皇の母であり、天智天皇、天武天皇の祖母にあたる人物。
陵の中には1702年に近くの水田から掘り出された数体の猿石が置かれている。

吉備姫王の墓

猿石

明日香村
奈良県高市郡