精神疾患について考える(その24) ~有名人でみるうつ病のタイプ~

精神疾患について考える

0.はじめに

前回のお話し

うつ病、パニック障害で有名な人について、交感神経タイプと副交感神経タイプにわけてみたよ。

これまで、HSP,右脳、左脳型、解離、愛着障害、発達障害など多面的に見て来たけど、整合性がとれてる感じがするな。

まとめ


左脳型優位 
副交感神経優位型(メランコリー親和)
育成期の慢性ストレス・機能不全家庭に多い
愛着障害:回避型

右脳型優位
交感神経優位型(ディスチミア)・パニック
機能不全家庭でなくても起こる。
愛着障害:不安型

名前: 夏目漱石(英語教師・小説家)
活動期:1867年~1916年 49歳没
症状: 神経衰弱 ・醜形恐怖 ・強迫性障害・ 胃病、胃潰瘍、痔、糖尿病
発症期間:24歳あたり~49歳没 25年
きっかけ:失恋もどき?
婚姻:既婚、子あり
育成期間: 里子育ち、金の無心など

母は高齢で、出産後「面目ない」と恥じ望まれない子として産まれます。
家庭は裕福な名士でしたが、幕末混乱期、凋落傾向にあり、生まれてすぐ里子にだされました。
養父母の離婚により、9歳のとき生家に戻りますが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れます。
幼少時は波乱に満ち、この養父には、朝日新聞社に入社してから、金の無心をされます。
創設間もなかった帝国大学(のちの東京帝国大学)英文科に入学。
この頃、恋心を抱いていたと言われる三男の妻の死別に心に深い傷を受け、神経衰弱に陥り始めたとも言われています。
それから2年後に大学を卒業。
英語教師となるものの、極度の強迫性障害と神経衰弱に見舞われ、辞職して休養のため松山へ。
結婚後、華族出身である妻が生活環境に慣れず、ヒステリー症が激しくなり、投身自殺を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいきませんでした。
イギリス留学して1年後、神経衰弱が悪化し帰国。
帰国後は、東京帝大の教師となり、やる気のなさを漱石に叱責された生徒が入水自殺し、神経衰弱が増すなど、妻とも約2か月別居する。
その後、胃病、胃潰瘍、痔、糖尿病にも苦しめられ、体内出血で死去。

名前:マザー・テレサ(クリスチャン)
活動期:1910年~1997年
症状:うつ病、胸の痛み
発症期間:38歳から死去まで約50年
きっかけ:?
婚姻:未婚、子なし
育成期間:親子関係良好

父は地元の名士であり手広く事業を営む実業家。
アルバニア独立運動の闘士でもあり、45歳で急死。
彼女は3人兄弟の末っ子。
一家は裕福であったが、父母は信仰心に篤く、貧しい人への施しを積極的に行っていました。
カルカッタ(現在のコルカタ)で地理と歴史を教え、ユーモラスな彼女の授業は、学院の女学生たちの間で大変人気があったといいます。
インドの貧民街の聖女マザー・テレサは、献身的で犠牲的な奉仕活動によって世界中の人々から讃美と敬意を集め、1979年にはノーベル平和賞を受賞しました。
一方で、彼女には別の顔がありました。
多額の寄付金があったはずであるのに、ホスピス「死を待つ人の家」の環境が劣悪であったこと。
マザー・テレサに助けを求めた病気の貧しい者の3分の2は医療ケアを希望していたのだが、施設に引き取った者の3分の1は適切な医療処置が行われないことで死亡していたという事実。
また、惜しみなく人々に祈りを捧げていたが、話が財団のことになるとお金に対して吝嗇家であったといわれています。
「愛――その言葉は何の喜びも私にもたらしません。 神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりにも大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。 」
マザーが終生「心の闇」に悩んでいたという事実の公表は、世界中に大きな波紋を引き起こすことになりました。
「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるですべてが死んでしまったかのようです。私がこの仕事(*インド貧民街での奉仕の仕事)を始めるようになって間もないときから、このような状態がずっと続いています。」
「私の心の中には、表現できないほどの深い孤独があります。」
「わたくしが感じるのは、神がわたくしを望まれないことです。神は不在です。……神はわたくしを望まれない」

名前:種田山頭火(俳人)
活動期:1882年~1940年 58歳没
症状:神経衰弱 
発症期間: 22歳~58歳没まで 36年間
きっかけ:母親の死?
婚姻:離婚、子あり
育成期間:母の死、道楽親父

5人兄弟の長男として誕生。
10歳のとき、父の芸者遊びを苦にして母が井戸に投身自殺。
これが、山頭火の憂鬱な人生を決定づけたそうです。
20歳で早稲田大学に入学するも、神経衰弱のため2年後に中退し、しばらく東京に滞在しても回復しないため実家に帰郷。
この頃父は、 種田酒造場を開業、山頭火は結婚し子供を授かります。
しかし、酒造場の経営が危機に陥り、破産に追い込まれ、父は行方不明、山頭火は友人を頼って妻子と熊本へ移ることになります。
熊本では、古書店、額縁店を開きますが、 軌道にのらず、常に空虚感や欠落感が付き纏い、更にこの頃に起こった弟の自殺が山頭火をより一層酒に向かわせることになっていきます。
妻子を熊本に残したまま、単身上京するも、関東大震災に遭遇し、再び熊本の妻子の家に戻り、本市内で泥酔し、路面電車を止めたところを顔見知りの記者に助けられ、市内の報恩禅寺(千体佛)住職・望月義庵に預けられ寺男となります。
その後、西日本を旅し、50歳のときに体調不良から来る精神不安定から自殺未遂を起こします。
最後は、松山に建てた「一草庵」で脳出血により死去。

名前: 荻原流行(俳優)
活動期:1953年~2015年没(事故死)
症状:うつ病、自傷行為
発症期間:38歳から死去まで約50年
きっかけ:過労
婚姻:既婚、子なし
育成期間:機能不全家庭、
    父親の不倫、DV親父

父親はギタリスト、母親は踊り子。
父親はすでに結婚していながら、両親は交際し、不倫関係の中で流行さんは誕生。
父親はDV男で、子供時代に母親が父親に殴られるのを何度も目撃しており、大人になってからも大きな影響を及ぼしたといいます。
そんな母親に暴力をふるっていた父親に対し、流行さんはきれてしまいます。
萩原さんが高校二年生だったある日、帰宅すると、父親に殴られて血を流す母親と兄の姿がありました。
これに逆上した萩原さんは、父親を殴り、包丁まで手にしたそうですが、兄と母によって止められ事なきを得たようです。

劇団所属でも端役が続き、結婚しても生活は安定していませんでしたが、仕事が増えるようになってきた1991年頃からうつ病を発症します。
「僕が一番辛かったことは、芝居中、台詞が頭にはあるのに、ぜんぜん言葉に出てこないこと。ドラマで50回もNGを出したこともあります。集中力も散漫になるし、やる気も起きてこないし、綱渡りのような感じで仕事をしていました。朝起きるのが辛い。
吐き気はする。頭痛、どこにも出かけたくないし誰にも会いたくない。でも仕事はこなさなければならないし・・・」
また、自分にはDV父親の血が流れているという理由で子供を産まなかったといいます。

結果的に、萩原流行さんのうつ病は治ることなく、1991年から亡くなる2015年までのバイク事故で亡くなる約24年もの間、服薬による治療が続いたことになります。
きさくでひょうきんな性格で猫好きで有名。

境界性パーソナリティー
自傷行為
愛着障害・・無秩序

名前:中森明菜(歌手)
活動期:1965年~
症状:うつ病⇒引きこもり、対人恐怖
発症期間:24歳~ 30年以上
きっかけ:失恋
婚姻:未婚、子なし
育成期間:貧しい家庭、愛情に恵まれない、家族からの金の無心

1965年、6人兄弟の三女として生まれ。
子供の頃は、甘えん坊で茶目っ気がある一方、クールで女の子とべたべたすることはなかったようです。
家は貧しかったため、家族のためお金の稼げるアイドルを目指します。
(本当は保母さんを目指したかったらしい)
愛情をあまり受けずに育ちましたから。だからそのぶんね、よく孤児院なんかで育ったコが、絶対自分は温かい家庭をつくるんだって言ったりする、それと同じでね、ひとには絶対、イヤな悲しい思いをさせたくないの。
それなのに、なかなか感情のコントロールができなくて……こんな自分に疲れちゃうんですよ」
昭和アイドル時代の全盛期に松田聖子さんと並ぶトップアイドルとして人気を得、莫大な収入を得ながら、その収入を家族で勝手にごっそりと使われてしまった。
近藤真彦さんとの破局で同マンションでの自殺未遂があったのが1989年。
原因は、松田聖子さんとの密会や、中森明菜さんの結婚式用に貯めていたお金を、自身のレース資金に使い込んでいたとも言われています。
中森明菜さんは金屏風会見で謝罪し、以後精神を病みメディアへの露出は減っていくことに。
一方、近藤真彦さんは沈黙を保ち、その後、一般女性と結婚して子供を授かり、ジャニー喜多川さんの送別式で代表挨拶を務め賞賛を浴び人生を謳歌しています。

こんな歌うたってたね。

なかなか、真理をついた歌だ

愚か者/近藤真彦

名前: さかもと未明(漫画家)
活動期:1965年~
症状: うつ⇒双極性障害
(コンサーターによる)(30年~)
   アルコール中毒
ASD+ADHD
強迫性障害(確認行為)、ゴミ屋敷、知覚過敏 , 膠原病 、摂食障害
発症期間:高校生で発症~ 30年以上
きっかけ:家庭内ストレス・いじめなど
婚姻:既婚、子なし
育成期間: 機能不全家庭+いじめ、DV親父、毒親(精神疾患なし)

父は母親に激しい暴力をふるい、家財を壊していくDV親父。
怒号や悲鳴が響き、物の壊れる音が飛び交う中、さかもとさんは妹たちとその都度、家の隅に固まって、胃が縮み上がる思いをおしながら嵐が過ぎ去るのを待つ恐怖感を味わい続けました。
親は、箸の上げ下ろしから、靴の脱ぎ方、絵の描き方、読書傾向や、目つき、口のきき方や姿勢に至るまで、24時間口論しっぱなし。
9歳のころより、試験では百点ばかり取る半面、運動がまるで苦手で「変わった子」とからかわれ、いつもクラスメイトに泣かされ、いじめにおびえる毎日。
ひとりぼっちでコンパスや定規を用いて幾何学模様を描いたり、絵本を読んだりして過ごします。
高校になり、美術部に入ろうとしますが、母親から拒絶されたり、親友が亡くなるなどで何事にも無気力になり、常に倦怠感に包まれるようになりました。
頭痛や腹痛に悩まされ、布団から起き上がれず、夜はリストカットを繰り返すようになったほか、体重が40キロを切るほどの摂食障害になり、しばしば朝礼や授業中に倒れ、不登校に。
手首の切り傷を母親に見られた際に「そんなことで親を脅せると思うな。死ぬなら死になさい。できないくせに」と言われたこともあるといいます。
就職前に、「漫画を描いていたい」と母親に申し出たところ烈火のごとく怒られ実家をでることを決意。
OLになって業務を遂行できず3か月で退職します。
結婚後、漫画を描き続ける日々が続いたが、2年で離婚。
結婚を意識するような出会いに恵まれるも、交際自体を負担に感じてしまい、相手の気持ちに沿うことができず、恋愛を実らせることはできませんでした。
2005年がら強いドライアイとなり強迫性障害、脱毛症等様々な症状を発症し、ゴミ屋敷同然に。
2017年にはコンサータ―の副作用で双極性障害に。
著名人との交流の場では、和装を常としてエルメスのバッグを合わせ、上品なふるまいを意識。
一回目の結婚と離婚のときのはんこをもらう時と、おばあさんのお葬式の時にしか家に帰らないようです。

名前:飯島愛さん(AV女優・芸能人)
活動期:1972年~2008年 36歳没
症状:うつ病・解離性幻聴・不眠・自己肯定低い
発症期間:?
きっかけ:睡眠薬の飲みすぎ?
婚姻:未婚、子供なし
育成期間:機能不全家庭+いじめ
     愛情欠損

     毒親(精神疾患なし)

父親はエリートの家系で亭主関白。女は男に従うのが当然という性格で、母親は、エリート親族に囲まれ、躾けとエリート教育を強いられていました。
幼少期はとても大人しい子供で、両親の言いつけ通りに一生懸命勉強し、成績もよかったそうです。
「笑わない父親の隣で、口数の少ない母はいつも目を吊り上げていた。母からすれば子どもたちが叱られるということは、遠回しに
「お前の教育がなっていない」
といわれているようなものだった。
「あなたのためだから、あなたのためだから」
ほんとにそうだろうか。
でも、それが母の口癖だった。」
(以上引用 フライデー)
愛さんの両親は、教育熱心であることは近所でも評判で、中学受験を目指していましたが、不合格。
受験失敗を恥じた両親は、自宅から遠い中学へ越境入学させます。
越境入学は手続きが難しかったにも関わらず、入学させた飯島さんの両親に、近所では「あの親なら・・」と納得していたようです。
友達のほとんどいない三亀中で、とてもおとなしい印象で、学年で常に10位以内という好成績を修めていましたが、母親からは褒めてはもらえませんでした。
「あるとき、数学で90点を取った。
(中略)今度はきっと、ほめてもらえる。(中略)
「山口さんは何点だったの?」
「・・・・・・・・・・」
「4問も間違えているじゃない、どうしてできなかったの」
(中略)
<私は、ただほめてもらいたかった。
父に、母に、一言
「がんばったね」
といってもらいたかった。>
(以上引用 フライデー)
中1の時、愛さんを支えてくれた祖父が他界したのをきっかけに、不良への道へと進みます。
中2の時、派手な振る舞いが多かったためか、女子生徒からリンチを受け、以後シカトされ中学にはいられないようになりました。
その後、家出を、万引きを繰り返し、補導されるごとに父親から顔中あざだらけになるほど殴られたそうです。
高校に入学するも1カ月で中退し、 両親の前から姿を消し 知り合った彼氏と同棲します。
AV女優を得て芸能界入り。
イメージ的には遊び人的なところがありますが、純粋で、とても真面目な考え方をしており、常に他人に気を使い、番組終了後は、失礼なことを言った相手に謝罪していたそうです。
一見、社交的に見えて、心からの友人が一人もいなかったことや、自称友達タレント群とは、あくまで表面的、お義理的なおつきあいでしかなかったこと、自分の真の姿を見せまいと、偽っていたようです。
体調不良を理由に引退。芸能界引退理由に「テレビが進化して化粧では誤魔化し効かなくなるから」と家族に語ったそうです。
引退後は、精神をを取り乱し、警察に駆け込んだり、ブログに抗うつ薬を服用していたことなど精神的な不調を書き込んでいました。
普段から睡眠薬を常用し、自宅の1階に降りると真っ暗なエレベーターの隅っこで膝を抱えて小さくうずくまっていたこともあったといいます。
『てめぇバカャロウ!』という脅しのような耳鳴りが24時間ずっと聞こえることにも怯えていたとのこと。
夜中の1時頃に突然尋ねてきた飯島さんは、3~4時間ずっとベッドの上に座ったまま。
そして朝4~5時頃に「うん、もう大丈夫。大丈夫だから…」と自分に言い聞かせるように帰って行ったといいます。
2008年クリスマスイブの日死去。
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名前: マリリン・モンロー (女優)
活動期: 1926年~1962年 36歳没
症状: うつ病・過敏性腸症候群(IBS)・吃音
発症期間:?
きっかけ:?
婚姻:離婚、子供なし
育成期間:孤児院育ち・ネグレクト・性的虐待

母との片親家庭に生まれ、母は精神病であったため親友に預けられた後、 孤児院へ預けられるます。
しかし、性的虐待、ネグレクトで支配された養家へ連続して送られ、そのせいか吃音症を患うように。
当時の大統領の政策で、里親には支給された援助金目当てで子供を引き取る家もあったとされ、いくつもの家をたらい回しにされるなど大事に扱われたとは言えませんでした。
16歳のとき結婚するも、4年後女優を目指すことで離婚。その後、トップスターにまで登りつめますが1957年頃から不調が続き、ジーク・ムント・フロイトの娘から境界性パーソナリティーと診断されます。
1962年、ロサンゼルス郊外のブレントウッドにある自宅の寝室で全裸で死亡している所をメイドが発見。36歳没。
死の直後、マスコミでは「死因は睡眠薬の大量服用による急性バルビツール中毒で、自殺の模様」と大々的に報道され、世界に多大な衝撃・悲嘆が駆け巡ります。
セクシーな姿は世間の期待に応えるためにマリリン自身がつくった虚像で、素顔の彼女は純粋な女性だったようです

名前: 太宰治(小説家)
活動期:1909年~1948年 38歳
症状: 薬物中毒、アルコール依存、自殺未遂、不眠(睡眠薬)
発症期間:?
きっかけ:?
婚姻:離婚、子供なし
育成期間:ネグレクト・虐待

大地主の子として生まれ、父は貴族院などを務める名士でした、
父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったので、生まれてすぐ乳母、叔母、女中に育てられます。
両親のネグレクトと、使用人からの虐待が人格形成に大きな影響を与えたと言われています。
学生時代は、開校以来の秀才と言われ級長を任され、フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学。
しかし、授業についていけず中退 します。
素晴らしい作品を残した一方で、私生活は非常に荒れ、精神病院への入退院、薬物中毒、アルコールの多量摂取、度重なる自殺未遂を行い、その生涯を自殺で閉じました。

名前 : 芥川龍之介(小説家)
活動期: 1892年~1927年 35歳没
 症状: 神経衰弱、胃潰瘍、不眠症、
薬物中毒、自殺未遂
発症期間:23歳頃から35歳没まで?
きっかけ:失恋?
婚姻:結婚、子あり
育成期間:里子育ち

牛乳屋を営む一家の長男として誕生。
生後7ヵ月後頃に母が精神に異常をきたしたため、母の実家の芥川家に預けられ、伯母に養育されることになります。
11歳の時に母が亡くなり、翌年に叔父の養子となり芥川姓を名乗ります。
中学での成績が優秀であったため、無試験で第一高等学校(旧制一高)に入学。
東京帝国大学英文学科へ進学し、在学中に菊池寛、久米正雄らと同人誌『新思潮』を刊行します。
大学を卒業後、海軍機関学校の英語の嘱託教官として教鞭を執ると同時に創作にも励みます。
23歳の夏、才色兼備の吉田弥生と交際を始めます。青山女学院を卒業した弥生は、文学を好み、英語も堪能です。
英文科在籍の龍之介と相性はぴったりで、順調に進めば結婚に行き着くはずでした。 ところが弥生に、別の男性から縁談が舞い込みます。龍之介はその時、どれだけ深く彼女を愛しているか気づきました。弥生に求婚したい。しかし養父母とフキに告げた途端、激しい反対にあいます。相手の女性が「士族」でないことや、私生児だったこと、また、婚約者がいるのにプロポーズする龍之介の一途さなどが、反発を買ったといわれています。
伯母のフキは夜通し泣き、龍之介も泣きました。結局、龍之介があきらめる形となるのです。
このときの苦しみを、芥川は友にこう打ち明けています。
・私は随分苦しい目にあって来ました 又現にあいつつあります 如何に血族の関係が稀薄なものであるか……如何に相互の理解が不可能であるか。
・イゴイズムのない愛がないとすれば人の一生程苦しいものはない 周囲は醜い 自己も醜い そしてそれを目のあたりに見て生きるのは苦しい。
悲しみを紛らせようと、龍之介は遊郭に足を踏み入れますが、官能は悲哀を与えるだけでした。
失恋直後に書いた『仙人』に、次のような言葉があります。
「何故生きてゆくのは苦しいか、何故、苦しくとも、生きて行かなければならないか。 」
この問いは、終生、芥川から離れませんでした。 1921年、海外視察員として中国を訪問し、帰国後次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルを発症し以後精神状態が悪化していきます。
義兄が、放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺し、芥川は、義兄の遺した借金や家族の面倒を見なければならなくなります。
1926年、病状が悪化し、湯河原で療養。
1927年、帝国ホテルで 秘書を勤めていた平松麻素子と心中未遂事件を起こし、「続西方の人」を書き上げた後、致死量の睡眠薬を飲んで自殺。

名前:堂本剛(歌手・俳優)
活動期:1979年~
症状:パニック障害、過呼吸症候群⇒うつ、解離性健忘
発症期間:18歳~(5年)
きっかけ:ギャップ
婚姻:未婚、子なし
育成期間:親子関係良好

家族構成は両親と6歳上の姉の4人。
小学生の時から、子役として活躍。
6年生の時に、母と姉がジャーニーズ事務所に履歴書を密かに送ったことがきっかけで、ジャニーズ事務所入りとなります。
中学時代は、奈良の地元の中学校に通いながら、新幹線で上京を往復。
18歳のころから、パニック障害や過呼吸症候群が始まり、症状が酷い時期は、体重も減りコンサート中・番組の収録中も関係なく、過呼吸発作や動悸・眩暈などの症状が出ていたそうです。
元々人前に出る性格ではなかったため、アイドルと、本当の自分のギャップに苦しんだことが原因。
「僕、めっちゃ泣きましたね。やっぱり奈良がすごい好きやったし。何かこう心の底から人さまの前に立って、何かを表現するというお仕事に就きたいと思ってなかったんです」
「18歳からの5年間死にたいと思っていた。死にたい、死ねない、死にたい、死ねない、死にたい、を繰り返していた。」
「金田一少年の事件簿」に出演し、爆発的な人気を得ていたころ、本当に死にたいと思っており、「記憶がほとんどないんです」と語っています。
(解離性健忘)

名前: 中川剛 (漫才師)
活動期:1970年~
症状: パニック障害・アルコール依存・乗り物恐怖
発症期間:28歳~29歳 1年程度
きっかけ: 仕事のプレッシャー
婚姻:既婚、 子供あり
育成期間:厳しい父親、貧しい家庭

父親はしつけに厳しく、食事中に会話は厳禁。しゃべりそうになると、げんこつが飛んできたといいます。
家は貧しく、おもちゃも、すぐ壊れるという理由で買ってもらえず、唯一の娯楽は、父が会社からもらってくる花月のタダ券で漫才に観にいくことだけでした。
1997年頃(28歳)の頃、ご飯を食べていて、きなりふらっとし、頭痛、呼吸困難が、 2、3時間おきに発生。不安をかき消すためお酒を飲むと治まるものの、翌日発作がくるのでまた、お酒を飲むの悪循環。
病院にいくと「パニック障害」と言われました。
「息ができない。電車、とくに乗車時間が長い急行や特急には不安で乗れないんです。それまで30分だった大阪―京都間の電車移動が、各停(各駅停車)で乗っては降りて移動したので、5時間かかるようになりました」

名前: 高木美保さん(元女優・コメンテーター)
活動期:1962年~
症状:パニック障害・うつ病
発症期間:36歳で発症し約7年間
   (薬使用せず自力回復)
きっかけ:期待に応えるためのプレッシャー
婚姻:既婚、子なし
育成期間: 親子関係良好

女優業をやっていたとき、「出来たお嬢様像」を演じる機会が多く、本来の性格と女優としてのイメージとのギャップに悩み「女優業は自分に合わない」と痛感。
セリフを覚えていても「わたしはこういう人じゃない」という違和感、どうしても埋められない溝みたいなものがあって、それがどんどん広がっていってしまった」とのこと。
仕事や日常生活から感じるストレスで、パニック障害を起こし、そのパニック障害がまたいつ起こるか、不安が積み重なり、日常生活全体に不安を感じるようになり、鬱状態に。
「電車の中でパニック発作を起こしたのが始まりでした。一度起きると、「またこの発作が起こるのではないか」と不安になっていき、それがどんどん自分の中に積み重なって、日常のすべてに不安を感じるようになってしまいました。それがうつの入り口だったのですが、当時はパニック発作ということばも聞いたことがなかったので、自分がうつだとは思ってもいませんでした。」
ある時、心の転換をしてみたところ、気持ちがすっと楽になったそうです。
自分の状況の困難さ、自分そのものの否定を克服して、何とか切り抜けていけるという意識ができたことで、快復に向かったとのこと。

名前:長嶋一茂 さん(元プロ野球選手)
活動期:1966年~
症状:パニック障害⇒うつ病
  (薬使用をやめ回復)
発症期間:30歳で発症、約17年間
きっかけ:プレッシャー、親族の死
婚姻:既婚、子あり
育成期間: 偉大な父親の存在
     団らんのない冷たい家庭

長嶋家は、子供4人の6人家族。
偉大な父親の存在で、子供のころから特別扱いを受け、プレッシャーを抱えた人生を送ります。
長嶋茂雄さんが現役時代、家族団らんなどという時間は一度もなく、みんなバラバラであったそうです。
少年野球チームに入れば、うまくもないのに4番サードで背番号は90番。マスコミもつきまとい、友達は離れ孤立したほか、知らない大人から長嶋氏へのアピールとして突然お金や高価なプレゼントを貰うなど、10歳の頃にはすでに本当の自分と向き合ってくれる人がいないことを悟っていたといいます。
1988年にはドラフト1位でヤクルトに入団しますが思うような成績が残せず、1993年にトレードで長嶋監督率いる巨人へ移籍。
巨人在籍時代は、監督の茂雄さんと一度も会話はしたことなく、複雑な関係だったようです。
1996年の30歳の時、巨人2軍で、食事中に過換気症候群で呼吸が困難となり、家の中でも天井がぐるぐる回って精神に異常をきたし、練習にも行けなくなって監督から戦力外通告を受け引退します。
引退後は芸能界入りし、テレビ出演していたものの
症状は10年以上続き、お世話になったお手伝いの女性と祖父母、母を亡くしたことを機にうつ病となってしまいます。
自殺衝動に駆られ、「お前が死ね、お前が死ね」という幻聴が聞こえ、「常に包丁、毎晩のように持ってました」と述べています。
回復に向かい始めたのは47歳の頃(2013年)で、「いつ死んでもいい」と開き直ったこと。もうすぐ死ぬから、と飲んでいた薬もやめ、そっから良くなっていった」と明かしています。
また、妹の長嶋有希さんは、精神障害や薬物中毒であるといった噂が絶えないことや、兄弟間で会う事はめったになく、家庭を通してみてみると、長嶋茂雄監督の、表の顔とは別の部分がみえてきます。

名前:IKKOさん
活動期:1962年~
症状:パニック障害
発症期間:39歳のとき 約2年
きっかけ:仕事のプレッシャー
婚姻:未婚、子なし
育成期間: 確執父親との確執

両親と2人の姉と妹との間に誕生。
父は九州男児で、「男は男らしく」と教養しますが、女性らしいしぐさにきにくわなかったそうです。
当然、文句こそ言わないものの父は、ほぼシカト状態でまともに口も利かなかったそうです。
映像で出演していた39歳の時、「外で電話していたら急に首元が張るような感じがして、どんどん発作のようになって即入院した」と語っています。
具体的な症状としては、顔面まひや、めまい。さらには「電話が鳴ると体が震える」など。
飛行機や新幹線などの乗りもの、「閉鎖された中にいると、苦しくなったときに『ここから出られるのかな?』」と不安になり、ホテルの最上階や地下などにも近づけなかったといいます。
仕事のプレッシャーから「自分自身の許容範囲を超えてしまったような気がする」と振り返っています。

名前:Yui(歌手)
活動期: 1987 年~
症状:パニック障害
発症期間:27歳?~ 
きっかけ:仕事のプレッシャー
婚姻:再婚、子あり
育成期間:貧しい家庭、母子家庭

物心つく前から、父親がいない母子家庭で育ちますが、家計は非常に厳しく、少しでも母親を助けるために、高校時代は自分の学費を稼ぐために、睡眠時間を削って日々、アルバイトをしていたそうです。
無理がたたった生活のせいか、体調を崩し、肺炎となってしまいます。
しかし、診断は肺がんで余命1年と宣告されていたため、「やりたいことをやらねば!」と、病院を退院すると同時に高校も中退し、歌手への道をめざします。
2005年、メジャーデビューを果たすと、 大型新人として売り出され、以後、大ヒットをおさめ、さらには女優業にも幅を広げていきます。
しかし、2008年、リフレッシュ休暇との名目で突然の休止。
10ヶ月間の休暇を得た後、活動を再開するも、2012年にも活動休止。
2014年には 医師から『パニック障害の疑いがある』と診断され、精神安定剤などを処方されていたことを明かしました。
元々ナイーブな性格で、テレビ出演時にはひどく緊張し、音程やリズムがとれなくなることもあったといいます。
2015年、一般男性と婚約し、双子の男児を出産しますが、2017年離婚。
翌年には再婚し、2019年までに2児を出産し、4児の母となっています。

名前:ユースケ・サンタマリア
(タレント・俳優)
活動期:1971年~
症状:うつ病、吐き気、嘔吐、だるさ
  (交感神経優位)
発症期間:32歳から約
きっかけ:仕事のプレッシャー
婚姻:離婚、子なし
育成期間:親子関係良好

家族は両親と弟2人の長男。
2004年に2つ年上の一般会社員と結婚し、この頃から2014年までの約8年間うつ病に悩まされていたことを告白しています。
すさまじい吐き気、嘔吐とだるさ、下痢が治らないという状態が32歳頃から始まり、40歳頃まで続いたそうです。
病院に行っても「異常なし」とのこと。
その間、励まされても、「理解してくれない」と感じ、
自宅で寝て過ごす時間が増えたのだとか。
うつ病の原因は、バンドでデビューしたにも関わらず、タレント、俳優として人気が爆発したことで、納得のいかない仕事もこなさなければいけなくなったことのようです。
また、「一般人が芸能界にいるという感覚」と語っています。
完璧を志さなくなったことで少しずつ元気を取り戻し、現在は完全に復帰し、テレビやドラマなどで活躍しています。

名前: 大場久美子さん(歌手・女優・カウンセラー)
活動期:1960年~
症状: パニック障害・自傷行為・閉所恐怖(8年目に克服)
発症期間:38歳あたり~49歳 8年
きっかけ:事業失敗、母親の死
婚姻:再婚、子なし
育成期間:父親毒親で確執
    母親との相性いい

「1億人の妹」のキャッチフレーズでトップアイドルの座に上り詰め、 歌手、俳優として活躍。
32歳で1億2000万円の借金を背負い、自己破産。
どんな時も見方だった母の死の直後、突然動悸が激しくなり、8年間のパニック障害との闘病生活が始まります。
「最初は心臓病や更年期障害を疑いましたが、病状は一向に改善しなかった。それどころか発作の頻度は増え、呼吸ができず、窒息してしまうのではないかと恐怖に襲われるほどでした。 」
と語っています。
早く完全に直したいという焦りから、他の病院にも通院。副作用のある薬を飲んだためにひどい鬱になってしまい、自分をコントロールすることができなくなり、自傷行為を起こしてしまったこともあったのだといいます。現在は、薬を止め「すっかり元気」になったといいます。
過去を遡れば、厳格な父に原因があったといいます。
両親の喧嘩が絶えず、いつも父の大きな声にビクビクし、 箸の持ち方、ほんの些細な間違いでも怒鳴りつけ、元旦からテーブルをひっくり返したことも。
そんな環境のせいか、幼少の頃から自分の意見を主張できず、言葉数も少ない子供で、友達とコミュニケーションがとれずよくいじめにあっていたといいます。
しかし、本人いわく、性格はいたって男性的。
もともと化粧は嫌いで、めんどくさいと化粧をしたまま寝てしまったり、買い物は即決。
TVの料理番組でも、おいしくないものは嘘はいえないほど結構はっきりした性格のようです。
パニック障害克服後は、還暦ビキニをめざし、キッチンビキニを披露するまでに回復。

名前:華原朋美(歌手)
活動期:1974年~
症状:薬物依存、うつ病?
発症期間:24歳?~ 20年程
きっかけ:失恋、睡眠薬過剰摂取
婚姻:未婚、子あり
育成期間:親子、兄弟関係良好

両親は会社経営を営み、兄2人と弟の6人家族。
兄弟も全員経営者という裕福な家庭に生まれ育ちます。
高1のとき、全国美少女コンテストに入賞。
高3のとき、スカウトで芸能界入りし、小室哲也と出会うことで爆発的人気を得るなど、順風な人生を歩んでいました。
歌手デビュー時は、当時絶頂期にあった小室哲也さんと1995年あたりから交際していましたが、4年ほどで破局。
それが原因で、睡眠薬依存になり、お菓子のように睡眠薬を服用していたそうです。
その後、精神状態が不安定のため、仕事をドタキャン、契約事務所から契約解除を受けます。
2009年には、医師から処方された精神安定剤を多く所持しており、「大量服用による薬物中毒」と報道されます。
ふらふらとし下着一枚で外にでることもあり、閉鎖病棟に入れられていたこともあったといいます。
兄弟のおかげで、復帰を遂げましたが、その後も精神状態が不安定で、
「兄とあいたいと思いません」
「恐ろしくて弁護士をつけました」
などSNSで発信。
2019年、大手企業勤務男性との間に第1子出産。

名前: 大原麗子さん(女優)
活動期:1946年~2009年 62歳没
症状: うつ病、双極性障害
発症期間:53歳~62歳没 約9年
きっかけ:整形失敗 薬物乱用
婚姻:2度結婚、子なし
育成期間:父親DV
    母親と相性よい母子家庭

老舗和菓子店の娘として誕生し。芸能界にスカウトとして入ります。
幼い頃から父親に殴られて育ち、8歳の時に両親は離婚。
麗子さんは母親に引き取られ、貧しいながらもバレエ教室に通わせてもらい、愛情をいっぱい受け育ちます。
そのため、父親には恨みを抱き、母親には楽な生活をさせたいと女優をめざすきっかけとなったそうです。
躁鬱的な性格で、躁のときはよくしゃべるとのこと。
気が短く、異性に対してファザコンであることを述べています。
俳優の渡瀬恒彦さんと結婚したものの、渡瀬さんの母親と同居を強いられたことや、仕事に専念するため5年後に離婚。
その後、森進一さんと再婚し、子供を授かるも「子供は産まない」と決断し中絶。
4年後に離婚しますが、森さんは離婚後、「家庭に男が2人いた」と会見しているように、男勝りな性格であったことが読み取れます。
左目が一重であったことにコンプレックスを抱いており、二重にする闇整形で手術は失敗。
まぶたが腫れ上がり、これにショックを受け、 ひきこもるようになります。
さらに、ギラン・バレー症候群の主治医が亡くなったことで、 うつ病を発症します。
納得のいかない仕事は全て拒否、主演以外も断り、撮影現場でも監督に対してセリフのダメ出しをするなど扱いにくい女優であったことで知られていたことも重なり、仕事のオファーは激減。
芸能界から孤立していくようになります。
さらに、複数の薬を大量に摂取していたせいか、症状は悪化。
友人や仕事関係者に時間をわきまえず、電話をかけ、悪態をつく行為が目立ち孤独状態に。
還暦を迎える頃には、財産も使い果たしていたようです。
2008年末に「しっかり病気を治して、容姿も心も完全に女優に変身して復帰したい。いえ、必ず復帰するわ。」と語っていました。
2009年 「不整脈による脳内出血」で亡くなったとされています。
「お別れの会」では森光子は弔辞の中で、「あなたは時間に関係なく真夜中でも電話をかけてきましたね」と述べ、同じく浅丘ルリ子も弔辞の中で、「大原からの一方的な長電話に苦しめられた」と述べています。